日本の飲みニケーションについて考える

【日本の飲みニケーションについて考える】

日本の飲み会の文化について考えてみたいと思います。皆さんはお酒好きですか?好きと答える方が多いのではと思います。私も嫌いではないです。ただ、「飲みニケーション」飲み+コミュニケーションの略です。この言葉には、違和感を覚えます。親しい仲間同士で飲む会は非常に楽しいですし、ストレスもなく、非常に心も開放されて楽しい気分になります。ただ、私は社会人になってから、飲み会で飲むお酒は、それとは異なると思っています。なぜなら、相手をよく知らないからです。社会人での飲み会は、よく知らない相手と手っ取り早く仲良くなる(仲良くなった雰囲気を作り出す)為の手段として用いられているような気がしてなりません。これが自分が望んで、行きたい飲み会であれば、良いのですが。中には上司との飲み会、先輩との付き合い、取引先との新年会、町内会の集会等々、出なければいけない飲み会の席というのも多いと思います。勿論、楽しく飲んでいる方もいると思うので、全てがというわけではないのですが。私が言いたいのは、そういう席で「飲みありき」=「コミュニケーションが取れている」と考える人が多いという事です。

コミュニケーションをとるのに、「飲み」は必要ではない

なぜなら、あなたは大学に入るまでに、友達を作った事があると思います。でも、その友達(小・中・高等学校の友達)とはお酒を飲んで、仲良くなったわけではないですよね。色々と一緒に学校生活や会話をして、お互いの事をよく知って、仲良くなったのではないでしょうか。つまり、コミュニケーションをとるのに、「飲み」は必須ではないのです。それなのに、飲む事がコミュニケーションの一環だと考える頭の固い人が多いのが社会に出るとなんと多い事か、理解できない所です。飲みあう事で仲が深まると考えているわけです。お互い、翌日には話した内容すら、すっかり忘れている事もあるのに・・・。

飲み会は手段であって、コミュニケーションを深める場ではない

この事を多くの人が誤解していると思います。飲み会はお酒が入る事で、気持ちが大きくなり、相手の要求を受け入れやすくなります。つまり、交渉事や恋愛の場で使われる事が多いのはそのせいです。会社間の難しい交渉をお酒の席で、うまく成立させる。あるいはお堅い彼女を口説く為に、少しアルコールを飲ませて気分を大きくさせる。その為の手段として使わる事の方が多いのです。極端に言えば、お酒を飲まなくても、仲のいい友達とはお茶だけで、何時間でも楽しく過ごせます。又、その時の方が、記憶としてもしっかり残っています。お酒の席で話した内容など、次の日に記憶が残っている可能性は非常に低いです

【変わらない日本の企業文化】この現象はしばらく続くでしょう

日本の企業で働いてきた年配の方々は、自分がやってきたことを肯定したがる傾向が強いと思います。否定してしまったら、自分たちのやってきたことを否定しているのと一緒ですからね。その為、新しい事を受け入れる事が非常に弱く遅いです。日本では古来から昔から続いてきた事を伝統/文化という表現をして延々とそれが絶対的に正しいかのように続けることを美徳としがちです。そこに大きな落とし穴があると思っています。確かに伝統は大事です。しかしそれは宗教や歴史の中の話です。ビジネスの中では伝統というものは、全く役に立ちません。むしろ時代遅れ又は時代錯誤の意識を生み出す温床です。常に新しいアイデアや習慣を意識して、改革していかなければ、ビジネスにおいては、乗り遅れていく事になるからです。後輩や社内での付き合い方を飲み会を開いて、コミュニケーションを深めようという考え方だけでは、付き合う人達は半分くらいではないかと思います。

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